スポンサーリンク


上記の広告は一定期間更新のないブログに表示されます。新しい記事を書く事で広告が消す事ができます。

  

Posted by みやchan運営事務局 at

2013年01月03日

序章(2)

 明治37(1904)年2月8日の旅順港外における日本海軍の夜襲を発端として開戦した日露戦争は、日本の為政者達にとって悲壮な覚悟であった。

 伊藤博文枢密院議長は、世論工作の為渡米する金子堅太郎に対し「露軍が大挙九州海岸に来襲するならば、自ら卒伍に列し、武器をとって奮斗するだろう。軍人が全滅するも博文は、一歩も敵を国内に入れない覚悟である。兵は皆死に、艦は皆沈むかも知れん」と漏らし、児玉源太郎陸軍参謀次長も「5度は勝報、5度は敗報の電報を受け取る覚悟でいてくれ」と述べ、山本権兵衛海相も「まず、日本軍艦は半分は沈没させる覚悟だ」と語っている。さらには明治天皇も「事萬一蹉跌を生ぜば、朕何を以てか祖宗に謝し、臣民に対するを得ん(この戦争が万が一失敗すれば、わたしはどうやって祖先にお詫びし、国民に顔向け出来るだろう)」と涙を流された、という。

 桂もまた、同様であったが、ただ単に悲観に暮れているだけでは首相は務まらない。彼は戦闘そのものには殆ど口を出さず陸海軍に一任する一方、外交や国内の治安維持に尽力した。先に述べたように、アメリカには金子を派遣して親日世論喚起に当たらせ、東欧にはロシア公使の明石元二郎大佐を派遣し、ロシア国内の内乱工作を命じた。肝心の戦費調達では、イギリスに日銀副総裁の高橋是清を派遣する等、外債発行を滞りなく実行出来るよう万全の布陣としたのである。

 一方で戦局の方はと言うと、初戦はロシア側の日本軍に対する過小評価もあり、トントン拍子で進行していった。開戦初頭に黄海の制海権を確保したことにより、仁川に上陸した陸軍第1軍(黒木為楨大将)はやすやすと朝鮮半島を突破して5月1日には鴨緑江を渡り満州に侵入、5日には陸軍第2軍(奥保鞏大将)も遼東半島に上陸した。

 その後、第1軍、第2軍に陸軍第4軍(野津道貫大将)を加えた3軍による遼陽会戦(8月24日~9月4日)や陸軍第3軍(乃木希典大将)による旅順攻囲戦(8月19日~翌年1月1日)において多大な犠牲を払いながらも辛勝し、上記4軍に第3軍から改編された鴨緑江軍(川村景明大将)を加えた5軍で奉天に迫った。

 日露戦争最大かつ最後の会戦となった奉天会戦では、日露双方合わせて60万にも及ぶ将兵が激突した。明治38(1905)年2月21日から始まった会戦は、18日間に及ぶ激戦の末、日本軍が勝利したが、人員、物資共に消耗しきった日本軍は、最早これ以上進軍することが出来なくなった。

 しかし一方で、ロシア側でも講和ムードが拡がっていた。会戦直前、ロシアの首都サンクトペテルブルクで厭戦デモ隊に対する発砲事件(血の日曜日事件)が起き、それを契機としてロシア第一革命が起きる等、ロシア国内は騒然としていた。明石大佐の内乱工作が功を奏し始めていたのである。
 
 戦費調達の面でも変化があった。

 相次ぐロシアの敗退は、欧米資本家をしてロシアに対する外債発行を躊躇させた。逆に、日本の外債発行条件は好転していた。戦前に紙屑同然まで値下がりしていた日本国債だが、高橋がクーン・ローブ商会のジェイコブ・シフと出会ったことが僥倖であった。彼がユダヤ人であり、反ユダヤ人政策を遂行するロシアを敵視していたことから、日本の外債引き受けを承諾したのである。以来、他の米英資本家も追従し、日露の戦費調達競争は日本戦勝の度に日本有利に傾いていった。

 ロシアは、あらゆる面において追い詰められつつあったのである。

 5月27日からの日本海海戦(~28日)に日本海軍の連合艦隊(東郷平八郎大将)が完全勝利を果たすと、ロシアはついに講和のテーブルに着くことを決定した。アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋により、ポーツマスにおいて8月10日より日露講和会議がスタートすることとなった。

 日本側全権は外相の小村寿太郎と高平小五郎駐米公使であり、一方のロシア側全権は元蔵相のセルゲイ・ウィッテ伯爵と元駐日公使のロマン・ローゼン駐米大使であった。

 講和条件として日本側は、(1)日本による韓国の自由処分、(2)満州からの日露両軍の撤兵、(3)関東州租借権とハルピン-旅順間鉄道の経営権譲渡、(4)軍費賠償、(5)樺太割譲、等を提示したが、この内、「絶対必要条件」であるとしたのは(1)から(3)であり、(4)、(5)は「比較的必要条件」となっていた。この条件は日本海海戦に先立つ4月21日に閣議決定、裁可されたものであったのだが、海戦の大勝利にも拘らず踏襲されたのである。



 7月8日、小村は万歳の歓呼の声に送られて、新橋駅を出発した。

 「帰ってくる時には、人気はまるで正反対でしょう」

 小村が桂に対してこう呟いたように、その後の交渉結果は国民の期待を裏切ることとなったのである。
  


Posted by なまくら at 18:13Comments(0)創作