2009年11月05日

死刑は物々交換の一種

 裁判員制度が始まったり、死刑廃止論者が法相に就任したり、ここ最近、にわかに死刑制度にまつわる話がクローズアップされるようになってきました。
 そんな中、産経新聞の読者投稿欄に、こんな意見が投稿されていました。非常に興味深い意見だったので、そのまま転載します。↓

 人命は人命としか交換できない
 「金曜討論」の16日付「死刑制度」で、死刑廃止論者の亀井静香氏が「国家が人を殺すことを是認していいのか」と述べていた。
 まず、国家とは「法」という強制力を伴った価値を共有するひとつの社会である。そして、社会とは「個性を持った個人が集まることで、おのおのが欲する『事と物』を交換、分配あるいは共有のいずれかひとつの手段によって、平和的に手に入れる仕組みが存在する場所」のことである。
 ここでいう事とは物以外の人間の行為などで、「欲する事と物」とは「価値」のことだ。
 社会には交換、分配、共有の3つの機能しかないのであり、人命は「造物主である神のものだ」と考える一神教徒の国以外では、個々人のものだから、分配することも共有することもできない。
 したがって、社会的機能のうち残るのは交換だけだが、人命が限りなく貴重なものである以上、人命以外のものと交換することは許されるはずがない。
 そして、人と人との関係は対等なのだから、なんら落ち度のない人を故意に殺した者は、自分の命を投げ出さなければならないことになる。
 これが、ずっと続いてきた死刑制度の論理であり、これを覆す論理は現在も見あたらない。
 前述の「人は造物主である神のものだ」と考えるキリスト教徒の国が、死刑制度廃止を世界中に押し広めようとしているが、それが「魔女裁判」「海外侵略」「人種差別」と同様の大きな過ちであることは、いずれ「歴史」によって証明されるに違いない。

  元大学教授 近宗干城(たてき)77
(10/22付 産経新聞アピール欄より転載)

 詳しくは知りませんが、この近宗さんは元筑波大学教授、農学博士で、「なぜ人を殺してはいけないのか 私の社会論」という本を書いているようです。
 農学博士で唯物史観否定論者、死刑肯定論者、というユニークな組み合わせの方ですが、今まで遺族の感情論に傾きがちで、死刑廃止論者に比べて論理面で若干不利だった死刑存続派の意見に、新たな視点から強力な助っ人が登場した、という感じがしたので、取り上げました。
 なるほど、キリスト教社会では、宗教観上、神が創った人を、人が壊すのは神に対する冒涜であるが、多神教社会では、人は神によって創られたものではないので、人が人を壊すことは個人の判断に基づいて良いのだ、ただし、交換、分配、共有の3機能が基本である社会において、人命と交換できるほどの貴重なものは人命しかあり得ない、だから、人命を奪った者は自身の人命と交換されなければならない、と。
 一切、感情を排した考え方で死刑制度を論じています。確かに、対価交換(実際には死刑執行しても、殺された人が還ってくるわけではありませんが)の原則上、説明が付きます。
 いずれ、この人の著作も読んでみたいと思いました。



Posted by なまくら at 00:47│Comments(0)
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