2014年12月31日

第1章の結びに代えて

 ふう。何とか予告どおり、年内にポーツマス編を仕上げることが出来ました。

 書き始めから丸2年。たった1ヵ月の出来事を書くのに、こんなにかかるとは思ってもみませんでした。

 しかし参考文献を調べる内に、外交の奥深さを知ることが出来たのは成果でした。彼らの持つ知識や外交センス、胆力や駆け引き上手には本当に驚かされました。今も、世界中でこんな外交が展開されているのでしょうか?

 なお、参考文献は(記憶にあるのだけですが)以下の書籍、HPになります。実際には今後の話の展開で参考としたものも含んでいますが、ご了承下さい。

吉村昭「ポーツマスの旗」(新潮社)
黒木勇吉「小村寿太郎」(講談社)
外務省 編「小村外交史」(原書房)
前坂俊之「明治37年のインテリジェンス外交-戦争をいかに終わらせるか」(祥伝社新書)
小林道彦「桂太郎-予が生命は政治である」(ミネルヴァ書房)
板谷敏彦「日露戦争、資金調達の戦い-高橋是清と欧米バンカーたち」(新潮選書)
若狭和朋「日露戦争と世界史に登場した日本」(WAC)
清水美和「『驕る日本』と闘った男-日露講話条約の舞台裏と朝河貫一」(講談社)
ドミニク・リーベン(小泉摩耶 訳)「ニコライⅡ世-帝政ロシア崩壊の真実」(日本経済新聞社)
伊藤之雄「山県有朋-愚直な権力者の生涯」(文春新書)
井上寿一「山県有朋と明治国家」(NHKブックス)
松元崇「山縣有朋の挫折-誰がための地方自治改革」(日本経済新聞出版社)
伊藤之雄「伊藤博文-近代日本を創った男」(講談社)
小林道彦「日本の大陸政策 1895-1914」(南窓社)
石井寛治・原朗・武田晴人 編「日本経済史2 産業革命期」(東京大学出版会)
ワシーリー・モロジャコフ(木村汎 訳)「後藤新平と日露関係史」(藤原書店)
天野博之「満鉄を知るための12章」(吉川弘文館)
読売新聞取材班「検証 日露戦争」(中公文庫)
ピーター・E.ランドル「ポーツマス会議の人々-小さな町から見た講和会議」(原書房)
長瀬隆「日露領土紛争の根源」(草思社)
小林道彦「児玉源太郎-そこから旅順港は見えるか」(ミネルヴァ書房)
千葉功「桂太郎」(中公新書)
伊藤之雄「元老西園寺公望-古希からの挑戦」(文春新書)

ロシアのHP ロマノフ王朝(14)~~ 1905年革命鎮圧とストルイピンの改革 ~~
http://www11.atpages.jp/te04811jp/page1-1-4-13.htm
サハリンの陸上油田開発から陸棚開発プロジェクトに至る歴史
https://www.jstage.jst.go.jp/article/japt/75/4/75_4_296/_pdf
もう一人のポーツマス講和全権委員─高平小五郎・駐米公使─
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/pub/geppo/pdfs/06_1_2.pdf
日露戦争史
http://www.jacar.go.jp/nichiro2/sensoushi/seiji08_detail.html
近代日本の七つの戦争「第3章 日露戦争」
http://www.inahodou.co.jp/index.Q.html




 ところで、講和談判を一度決裂させたことには、意見をお持ちの方もいるでしょう。
 日露戦争関連本の多くが、「クロパトキン軍は散々なやられ方をしたが、欧州方面の精鋭部隊であるリネウィッチ軍は戦意も高く、もし再戦となれば、やられるのは日本軍の方だっただろう」というような書き方をしています。
 しかし、本当にそうだったでしょうか。

 前掲・前坂俊之氏の「明治37年のインテリジェンス外交-戦争をいかに終わらせるか」に、ウィッテの回想録が載っていたのですが、そこにはこうありました。

 前にも言ったとおり、私は、全権の任命を受けて以来、満洲軍総司令官リネヴィッチから、直接にも、間接にも一度も報告を受けたことがない。満洲のわが軍は、奉天合戦から半年を経過しているが何事もない。(中略)彼はその兵力をもって何らか私の外交に協力したことがあるだろうか。「微塵もない」と答えるほかはない。
(中略)それから日本軍は、ハルビンとウラジオストック間の一地点に現れ、わが軍と遭遇したが、わが軍は戦わずして退却した。
その後、講和条約が調印されたが、総司令官は軍隊に革命気分が蔓延するのを防止できなかった。軍隊の崩壊を企てた革命党員の跳梁にまかせて威厳を失墜させ、全く軍隊の秩序を保ち得なかった。
そこでグロデコフ将軍が派遣され、リネヴィッチは召還された。召還された老獪な彼は会う人ごとに、「なんといっても第一の失策はウィッテが講和条約を結んだことだ。これさえなければ、私は日本人に思い知らせてやったのに!」と言っているそうである。
数日前、私は参謀総長バリツィンに会ったので、話のついでに聞いてみた。
「リネヴィッチは講和に反対のようなことを陛下に言明したことがあるのですか?また彼は講和問題が起こってから何事もせずに空しく日々を送っていたのですか?」
「そりゃあ、よくわかっているではありませんか。もう戦はないと決まった以上、講和さえなければ、きっと日本に勝っていたのに、と言う方が、彼にとって都合がいいのは当たり前です。しかしクロパトキンはもっと上手です。彼の言うことを聞いていると、彼以外の者はすべて失策したことになるのです。
リネヴィッチは講和談判の開始に際しても、また談判の進行中でも、一度も意見を言明したことはありません。ただ一度、いよいよ進撃の方略を定めたから陛下の裁可を仰ぎたいと言ってきたので、それは総司令官の決心どおりにすべきだ、と言ってやりました。彼はそれっきり沈黙して講和の決定するまで大人しく待っていたのです」
バリツィンは笑ってこう答えた。リネヴィッチとは、こういう「立派な」総司令官だったのである。


 ウィッテも、他のロシア閣僚・軍司令官などと同じくわが身が大事な人物であり、自身が結んだ講和条約によって祖国が汚名挽回するチャンスを逃したなどとは考えたくないでしょうから、上記は幾分真実から差し引くべきでしょう。
 しかし、リネウィッチがこの回想録のように「大人しく」講和条約締結まで待っていたのは事実です。
 もし、彼に多少の損害を出そうともロシアの威厳を守る気概があったのならば、日露戦争の行方は全く異なったものとなっていた筈です。だが、現実には、そうならなかった。
 ということは、ウィッテの回想録に出てくる上記の発言は、当たらずといえども遠からずといったところだったのではないでしょうか。
 そのような分析を行い、自分は「仮に談判破裂していても、すぐには再戦には至らなかった」と結論付けました。まあ、これだけでは心細いので、10月ゼネストも「少し前倒し」で起こしてみたりもしましたが。

 さて、次回からは新章に入ります。日露講和が成立し、日本はいよいよ大陸に進出していきます。
 中学の歴史教科書あたりは、日比谷焼打ち、日韓併合、そしていきなり第一次世界大戦に突入、となりますが、実際は色んな出来事が起きており、一つ一つが後の満洲事変や日米戦争に繋がる重大事件だったことが、調べていく内に明らかになりました。
 こちらも資料は膨大で、すべてが複雑に絡み合っていますが、少しずつ紐解いて、改変していきたいと思います。



 本年も、残すところあと数時間となりました。
 皆様にとって、来年が良い年となりますように。


同じカテゴリー(創作)の記事画像
第2章 日露戦の善後 3.鉄道王の来日
第2章 日露戦の善後 2.騒擾(2)
第1章 ポーツマス会議 6.秘密会議
第1章 ポーツマス会議 5.手詰まり
第1章 ポーツマス会議 1.会議開催
序章(1)
同じカテゴリー(創作)の記事
 第2章 日露戦の善後 3.鉄道王の来日 (2015-02-08 09:42)
 第2章 日露戦の善後 2.騒擾(2) (2015-01-03 08:19)
 第2章 日露戦の善後 1.騒擾(1) (2015-01-02 08:57)
 第1章 ポーツマス会議 18.最終会議 (2014-12-31 17:09)
 第1章 ポーツマス会議 17.ウィッテ陥落 (2014-12-30 12:20)
 第1章 ポーツマス会議 16.会議再開 (2014-12-29 07:04)

Posted by なまくら at 18:25│Comments(0)創作
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
第1章の結びに代えて
    コメント(0)