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Posted by みやchan運営事務局 at

2018年07月16日

防災省設置の提言を支持します 後編

前回からの続きです。

これまでの話は【前篇】【中編】をご覧ください。


さて、なまくら提案の「防災環境省」ですが、防災部門の職員や予算、権限などは、他省庁から移管されることになります。

当然ながら、内閣府の防災担当部署は防災環境省に移管となります。

また、国土交通省の水管理・国土保全局についても、大部分が移管されることになるでしょう。
特に、治水課、防災課、砂防部は堤防やダムをはじめ、砂防ダムなど各種土砂災害防止施設の整備・管理を司っており、ハード部門の主軸としてなくてはならない部署です。
そして、全国に約1万人が隊員登録しているTEC-FORCE(テック・フォース:緊急災害対策派遣隊)は、災害時の実働部隊として欠かせない存在です。

気象庁は現在、国交省の外局という位置づけですが、防災に必要な一次情報として気象や地震に関するデータは無くてはならないものであるので、これも当然、防災環境省の外局に所管替えします。

農林水産省も無関係ではありません。
農林振興局の防災課地すべり対策事業を行っており、国土交通省の砂防部とともに防災環境省に移管・統合することで、縦割りの弊害を無くし、効率的な施策が実行できるようになります。
同じく、農林振興局や水産庁が所管している海岸事業も、津波や高潮から国土を守る防潮堤や護岸、海岸浸食から国土を守る離岸堤や突堤など、国土交通省の海岸事業とともに移管・統合することが可能です。
そして、ため池や農業用ダム。これらについても、国交省所管の治水ダムや多目的ダムと一緒に管理することができるかもしれませんね。
また、最近はあまり注目されていないけれども、古来から洪水より多くの人々を苦しめてきた「渇水」への備えとして重要であることから、やはり移管するにこしたことはありません。

農水省の外局である水産庁の事業も、前述した海岸事業の他に、漁港の防災事業(漁港の堤防を粘り強い構造にするなどの改良)は国交省所管の港湾の防災事業と一元化することができるでしょう。

同じく外局の林野庁の事業では、治山事業や海岸防災林の事業が対象となります。
例えば治山ダムは砂防ダムと見た目や役割がほぼ同じと看做して良いでしょうから、防災環境省に移管・統合すべき事業となるでしょう。

文部科学省は、学校等の耐震化事業などが移管の対象になるでしょうし、防災教育の企画・立案なども移管するのが望ましいでしょう。
また、地震・防災研究課が行っている各種の研究も移管し、気象庁の研究陣とタッグを組ませることで、より成果が出やすくなるのではないでしょうか。

厚生労働省はDMAT(ディーマット:災害派遣医療チーム)を組織するなど、災害時医療を所管しますが、専門性が特に高く、通常医療と所管を分けることで逆に効率が悪くなるおそれがあることから、厚労省はそのままでも良いかも知れません。

総務省は、防災行政無線など、非常時通信網について所管しています。
これも専門性が高い業務ですが、政策立案部門だけ総務省から切離し、技術部隊は総務省に残すのも一案です。

総務省外局の消防庁は、防災環境省に移管すべき組織でしょう。
TEC--FORCEと統合し、発災時の現場スペシャリストとして活躍することを期待します。

経済産業省は、BCP(事業継続計画)を所管しています。
馴染の薄い方も多いと思いますが、発災前に備えておくべきものや発災後にやるべきことを記載したBCPの策定は、東日本大震災時のサプライチェーン崩壊を機に、今や企業活動(農協や漁協などの組合組織も含む)の維持・早期復旧に欠かせないものとなりつつあります。
これを防災環境省に移管することも、重要であると考えます。


こうして見ると、外務省、防衛省、法務省、財務省、宮内庁を除く7省庁から、何らかの組織(外局から課まで)が防災環境省に移管できることが分かります。
当然、既存省庁は反発するでしょう。(特に権限や予算を大幅に失う国交省)
しかし、国土と国民の保護は国家の一大事です。
ここはぐっと堪えて、国民のためを思った組織改編を断行してほしいものです。
(その他の省庁に至っては、殆ど「おまけ業務」的な扱いをされているので、寧ろ切り離した方が良いと思います)


ところで、石破氏は防災省提案を総裁選のネタにするつもりのようですが、前にも書いたとおり、むしろ無かったのが不思議なくらいの省庁なのです。(国防を司るのが格下の防衛庁だったのと同じくらい)
細かい部分での意見の違いはあっても、防災専門の省を創るという大きな枠組みの部分は、争点にしないでほしいです。
というか、国土強靭化を政策目標の1つに掲げる安倍さんが、この部分で反対する、なんていうことはあり得ないと思うのですが・・・
そうないように祈ります。  


Posted by なまくら at 09:11Comments(0)政策一般

2018年07月12日

防災省設置の提言を支持します 中編

さて、前回の続きです。

なまくらが「防災省」ではなく、「防災専門の省庁」を創るべき、と書いたのには訳がありまして。

実は、省庁の数を増やして防災専門の省庁を創ろうとは思っていないのです。

昔、何かで読んだのですが、一人の人間が複数の人の意見に耳を傾けられるのは、せいぜい10人程度、と言われています。

現在、各省庁のトップとしての大臣の数は11人です。(他に「○○担当大臣」が何人か)

上記の説からすると、これ以上省庁の数を増やすのは、あまり好ましいことではないことが分かります。

となると、省庁再編ですが、現在の省庁は平成13年の中央省庁再編により誕生してからまだ17年しか経っておらず、ガラガラポンするには早すぎるため、小規模な再編に留めることが望ましいでしょう。

なまくらが想定するのは、ズバリ環境省と統合して「防災環境省」を設置する案です!

何故、環境省なのか。

1つは、環境省が災害廃棄物の取扱いについての所管省庁だからです。

今回の大災害を見ても分かるように、一たび災害が起きると、大量の災害廃棄物が発生します。
それをいかに迅速に処理するかが、のちの復興スピードを決めると言っても過言ではないのです。

故に、災害廃棄物処理と復旧・復興は密接に関わる事案であり、防災所管省庁がこの2つを兼ねることは意味があるのです。

また、環境省は外局に原子力規制委員会を設けています。

御存じのとおり、原子力規制委員会は東日本大震災とそれに伴う福島第一原発の事故を教訓に設立された機関であり、原発の設置・運転において、自然災害をはじめとする外力から安全性を保つために存在しています。

原発の防災を担当する省庁が防災全般を担当する、とても理にかなっているのではないでしょうか。


3つめの理由として、実務的な省庁として役に立ってほしいとの願いからです。

個人的な印象かもしれませんが、環境省って、「環境」を錦の御旗にして綺麗ごとばかり言う小姑みたいな組織、ていうイメージがあるんですよね。(環境省の職員の方、ごめんなさい)
日本がエネルギー安全保障上、重要と思われる石炭火力発電については「Co2が増えるからダメ!」、地熱発電についても「国立公園内だからダメ!」などと、何をするにも邪魔する組織としか思えないんですよね。

そんな環境小姑(失礼!)が防災という人命が関わる役割を持つことになったら・・・
人間、与えられた役割って、どんなに分不相応と思っていても、頑張っている内にこなせる様になっていたりするんですよね。

環境省の人たちだって、国の足を引っ張る為に入省した訳じゃないんだと思うんです。
防災という実務に携わることで、少しでも現実的な組織になってほしいという期待をこめて、敢えて両者の統合を提案します。


4つめの理由として、中央省庁の力関係のバランスを整える、という目的があります。

環境省の職員数は約千人、予算規模は5千億円にも満たないものです。
これが例えば国土交通省だと、職員数は約6万人、予算規模は4兆円、厚生労働省に至っては職員数は約3万人、予算規模はなんと30兆円です。

はっきり言って、他省の出先機関なみの権限しか無いのが環境省。
そのトップである大臣も、やはり地位は低いものです。
ほとんど、大臣1年生もしくは2年生のポストなのではないでしょうか?(1年生は「○○担当大臣」か?)

防災部門を加えることで、省としても、大臣ポストとしても、他省庁と肩を並べる存在にしてはどうかと思うのです。

あと、最後に裏の理由になりますが・・・







現在、マンモス官庁となっている国土交通省のトップは、公明党(創価学会)の出身です。
というか、自公連立となってからずっと、国交大臣の椅子は公明党のものではないでしょうか?

もし、「防災環境省」が誕生し、国交省の防災部門がそちらに移管されれば・・・

考えただけでワクテカものじゃないですかw


ということで、さらに続きます。  


Posted by なまくら at 23:01Comments(0)政策一般

2018年07月10日

防災省設置の提言を支持します 前編

先週末からの大雨で、広島県、岡山県、愛媛県を中心に甚大な被害が出ております。
犠牲になられた方々におかれては、深く哀悼の意を表しますとともに、被災された全ての方々が一日でも早く日常を取り戻せますよう、祈念いたします。

こうした中、ネットでは何かと評判の悪いこの方が、こんな提言をしています。


石破茂氏、「防災省」の創設主張 「自治体の体制整備に必要」

 自民党の石破茂元幹事長は8日、鳥取市で講演し、西日本豪雨災害を踏まえ、復興庁を改組して「防災省」を創設するべきだと主張した。内閣府の防災担当部局については、一定期間で入れ替わる他省庁の出向者で主に構成されていると指摘し「防災の文化が伝承されない。都道府県や市町村の体制を整備するために必要だ」と述べた。

(産経ニュースより)


「防災省」、良いではないですか。というか、この災害大国日本で、今まで無かったのが不思議なくらいです。

ところが、ネット上での評判はイマイチのよう。皆さん、ゲルの発言だからって、否定的に捉えすぎではないでしょうか?

>内閣府の防災担当部局については、一定期間で入れ替わる他省庁の出向者で主に構成されていると指摘し「防災の文化が伝承されない。都道府県や市町村の体制を整備するために必要だ」と述べた。

この部分については、全く同意です。
基本的に、内閣府は各省庁からの出向者で構成されており、数年で元の省庁に戻ってしまいます。
その為、継続して1つの政策を継承・発展させるということが他の省庁に比べて難しいのです。
また、複数の省庁にまたがる案件や比較的新しい政策課題などは、全部内閣府に押し付ける傾向があり、過度な負担が懸念されてもいるのです。

ネット上では、「自衛隊に任せれば良い」なんて発言もありますが、浅はかな意見と言う他ありません。

自衛隊は基本的には外敵から国を守るのが主任務です。
勿論、サバイバルに長け、自立して行動できることから、災害派遣にはうってつけなのですが、当初の設立趣旨からは外れていることを忘れてもらっては困ります。
災害派遣に人出が取られた結果、外敵の侵入を許してしまっては本末転倒なのです。

また、実は体力仕事には自信があっても、重機の動かし方などには不慣れな一面もあり、かえって地元の建設業者の方が効率的に復旧作業ができたりもするのです。
それに、現場で的確な指揮が出来る人間は、そういった経験や訓練を積んだ人間です。
あと、最も重要な点として、自衛隊は「発災後」に必要とされる人材であり、「発災前」には不要な人材なのです。すなわち、「災害を防ぐ」という意味での防災には、やはり自衛隊は不向きなのです。

以上のことをもって、なまくらは既存の組織ではなく、新たに防災専門の省庁を創るべきだと強く思うのです。
では、具体的にはどんな組織か?続きはまた後日。  


Posted by なまくら at 07:28Comments(0)政策一般

2014年03月09日

「国づくり」の長期的観点を取り戻せ

 2月27日付の産経新聞(九州・山口版)に秀逸な記事が載っておりましたので、全文転載したいと思います。


  人手不足問題に「国づくり」の長期的観点を

 最近、建設業界の人手不足のため、公共工事で施工業者が決まらない「入札不調」が全国で相次いでいます。震災復興や安倍政権の進める「国土強靭化」政策のため、公共投資は増えていますが、人材が集まらず、入札が成立しないのです。

 九州・山口も例外ではありません。公営住宅の耐震化や公共施設の完成などに遅れが生じているそうです。工事が進められなければ、せっかくの財政拡大効果も薄れ、景気回復にもつながりません

 人手不足の原因は、ここ十数年間、公共事業の大幅削減が続いたため、建設業界が縮小し、働く人々が急減したことです。1996年をピークとして安倍政権が成立するまで公共事業費は下降の一途をたどりました。2011年度の公共事業費はピーク時の半分以下でした。GDPに占める割合も3~4%台とヨーロッパ諸国とあまり変わらない水準となりました。

 この数値は、減らし過ぎだったと考えてよいでしょう。日本は公共事業を必要とする国なのです。地震や台風などの自然災害が非常に多く、耐震化や、河川や港の整備が求められます。山地も多く、道路一本通すにも山を削りトンネルを作らなければなりません。公共工事がなければ、今も昔も安定した暮らしを営むのが難しいのが日本の国土なのです。

 人手不足に陥った最大の要因は、長期的観点を失った政治の失敗だといえるでしょう。国土保全のためには、各地の建設業者の維持や人材育成への目配りが必要でした。人材育成には長い年月がかかります。公共事業悪玉論や「コンクリートから人へ」といった安易なスローガンに乗ってしまった政治家やマスコミ、そして我々有権者の責任は大きいはずです。

 人手不足への対処として外国人労働者受け入れの検討が最近本格化していますが、これには大いに疑問を抱いてしまいます。外国人労働者受け入れの理由は、安い労働力の確保ですので賃金は上がりません。建設業界に入る日本人の若者はますます減り、熟練工や職人の育成にもつながりません。治安悪化など社会的コストの増大にも帰結します。

 やはり深刻な人手不足を招いた現状を反省し、短期的な視野に陥りやすい政治のあり方を抜本的に見直す必要があります。

 かつての日本人は、次世代の社会の安寧を今よりも真摯に考えていました。例えば民俗学の祖である柳田国男は、日向の那須山(椎葉山)の吊橋の事例を紹介しています。当地では吊橋を架ける四隅の支柱として杉の大木を植林し活用していました。柳田が訪れた際、現行の支柱の大木はまだまだ長年使えるものでしたが、すでにそれぞれの大木の脇には将来の支柱の役割を果たすものとして杉の苗木が1本ずつ植えてあったそうです。柳田は「苗木が役立つころには、現在の村民は全員代替わりしているはずであるのに」と述べ、山村でも将来世代の生活を心底案じていることに大きな感銘を受けたと記しています。

 現在の日本人も、長期的観点に基づく政治を取り戻す必要があります。今回の問題でいえば、深刻な人手不足の現状を反省し、公共工事の計画的配分、労務単価の一層の引き上げ、建設業界の待遇改善への支援、工業高校や高専への奨学金創設など、遠い将来まで見越した総合的な政策立案が求められるでしょう。一時の風潮に惑わされスローガン政治に陥った過去を反省し、長期的観点を忘れない国づくりの原点に戻る必要があるはずです。

 施 光恒(せ てるひさ)(「国家を哲学する施 光恒の一筆両断」より全文転載)



 まさにおっしゃる通りです。

 長期的視点を忘れた国づくりを長年続けてきた結果、土木・建設の分野は自分達の需要を自分達が供給出来ない事態にまで陥っています。

 需要を供給が満たせない国、これを世間一般では発展途上国と言います。

 例えば豪雪地帯における道路の除雪作業が非常に困難になりました。

 除雪作業は従来、道路管理者が年間契約を結んで建設業者に委託していました。
 そこに、「公共事業悪玉論」が襲い掛かります。

 公共工事は軒並み指名競争入札が排除されました。
 それに取って代わったのが一般競争入札という入札システムです。
 それは入札価格が全ての弱肉強食の世界。
 建設業者は1円でも安い価格を提示せねばならず、自ずと利益率を圧迫していき、最終的には赤字でも請け負わざるを得ない状態となったのです。(従業員を遊ばせておく訳にはいかないので、当然そうなります)

 結果、固定費はどんどん削られていきました

 建設機械は殆どが売却され、必要な時にリース会社から借りるようになったのです。
 除雪機械も例外ではありませんでした。
 1年の内、冬季にしか使用せず、しかもその年に受注出来なければ全くのお荷物と化す除雪機械。必要な建機だと分かっていても、「リストラ」の対象とせざるを得なくなりました

 人も減らされました。
 社内に正社員が1人だけであとは発注に応じて雇い入れる、つまり「1人親方」の会社が日本全国あちこちに発生しました。

 請け負う側がそんな状態まで追い詰められたところに、豪雨や豪雪などの災害が襲い掛かりました。

 民家を押しつぶした土砂を取り除きたくても、リース会社までの道が寸断され、重機は届きません。道路を塞ぐ何メートルもの高さの雪を除雪したくても、除雪機械は手元にありません。
 急な事態なので、人を雇う時間もありません。

 以前なら半日で対応出来ていた事態に、為す術もなくなっていたのです。

 結局、発注側は「除雪機械を保有しているか」を総合評価(一般競争入札に技術や地域貢献などの評価を加えたもの)の加点対象としたり、自前で除雪機械を保有したり(当然、初期投資と維持管理コストがかかる)するなどの努力を続けていますが、根本的な解決には至っていないようです。

 やはり、こういった分野は長期的視点に立ち、随意契約や複数年契約など、受注者側の経営安定を認めるシステムを導入すべきだと思います。



 また、長期的視点を持たなかった結果、莫大な損失を生むケースもあります。
 その典型例が道路の用地買収です。

 必要な道路幅は、基準(道路構造令)が改定される度に車道空間や歩行者空間といった部分で拡がっていきました。

 戦後の構造令が出来た当初(昭和33年)は車も歩行者も混在する、混合交通が認められており、道路幅の節約にはなりましたが、車と歩行者の接触事故が絶えない一因となっていました。
 そこで昭和45年に構造令が全面改訂され、歩車分離が原則となり、必要な道路幅は拡がりました。

 昭和50年代には、公害問題に端を発する生活環境の悪化が問題となり、植樹帯やそれの拡大版である環境施設帯が追加規定されるようになりました。
 植樹帯は標準で1.5mの幅が必要です。
 また、環境施設帯は10~20mの幅が必要となります。

 このように、道路は年々その機能を充実させ、その分、広い幅が必要となってきたのです。
 昨年からは自転車と歩行者の分離が徹底され始めており、そうなると従来の自転車歩行者道ではなく、専用の自転車用通路が必要となってくるのは自明のことです。

 ところが、肝心の道路にそのスペースを確保する余裕がありません。現在でも、昭和33年基準で造られた道路は数多く残っており、交通事故や沿道の環境悪化といった問題を抱えたままになっています。そんな道路に限って沿道には家や商店、ビルなどがびっしりと立ち並び、拡幅には莫大な予算と長期間にわたる用地交渉が必要となっているのです。
 もし、道路を通すにあたって、余裕を持って用地買収をしておけば、後年の拡幅困難といった事態は避けられたかもしれませんし、道路の狭さを補う為に設置されたガードレールや防音壁といった醜悪な構造物は必要無く、水道管やガス管、電線は歩道や植樹帯の下に設置されるので、車道の通行規制は大幅に減っていたでしょう。

 逆に、こんな事例もあります。
 北九州市の戸畑区と若松区を結ぶ若戸大橋のエピソードです。
 若戸大橋の着工は昭和33年ですから、まさに混合交通の時代、人も車ものんびり行きかっていた頃です。
 当時、橋を架けるにあたって、当局は将来の自動車交通増大を見越して片側2車線の橋にしたいと考えました。
 ところが、上(大蔵省?)はそれを認めません。
 「交通量も少ない地方の橋に、片側2車線も要るか!建設費が余計に掛かって勿体無い!!無駄な道路は造らせない!!」
 当局は近い将来、日本でもモータリゼーションが起き、1家に1台のマイカー所有が当たり前の時代が来る、と確信しておりました。
 もし、その予想が当たれば、若戸大橋は完成後10年あまりで大渋滞を引き起こす問題橋になる筈です。そして、再び架橋を考えなければならなくなる・・・長期的視点で見れば、その方が結果的に高くつくことは明らかです。
 しかし、上(大蔵省?)を説得させられるだけの材料が無い・・・
 当局は悩んだ末、ウルトラCの屁理屈を考え出しました。
 「若松区は市内有数の漁村集落です。一方の戸畑区は北九州工業地帯の一角を担い、人口も急増しています。戸畑区の人々の食卓には若松で獲れた魚が並んでいます。もし橋が出来れば、若松区から戸畑区にむけて、魚屋の大八車が列を成すようになるでしょう。遅い大八車が自動車の通行を妨げないように、大八車の専用車線がどうしても必要なのです!」
 こうして、若戸大橋は車道の左側に世にも珍しい大八車専用レーンが設置されることとなりました。
 そして、時代はモータリゼーションに突入し、当局が予想したとおり、若戸大橋で渋滞が始まりました。
 しかし、当局は何も慌てません。十分な幅を確保した大八車専用レーンを廃止し、車道に転換したのです。
 こうして、ほとんどコストを掛けずに若戸大橋の4車線化が完成しました。

 この話は学生時代に聞いた話ですが、なまくらの脳裏に気持ちの良いエピソードとして残っていました。



 目先のコスト縮減に拘る上(大蔵省?)と長期的視点で橋のことを考えていた道路当局、どちらが正しかったのか、後世を生きる我々は知っています。
 しかし、今造られている橋や道路、川やダムや港や防潮堤などについて、我々は正しい視点を持って見ているでしょうか。
 「無駄な空港」の1つだった福島空港は、震災後、緊急物資の輸送に大活躍しました。
 「無駄な東九州道」「無駄な国道220号バイパス」「無駄な東九州新幹線」は将来、我々を救うでしょうか、それとも財政破綻の一員として非難を浴びるでしょうか。

 特に小さな政府主義者には考えてもらいたいのです。  


Posted by なまくら at 08:29Comments(0)政策一般

2012年04月30日

データは捏造できる

 最近、三宅久之さんの言動がおかしいと思います。

 先日の「そこまで言って委員会」においてもそうでした。
 消費税増税の件に関して
「消費税が景気に左右されないんでしょ?だったら税率を増やせば税収も増えるじゃないの

 ・・・いや、消費税収入が増えても、景気が悪化すれば所得税や法人税が減収となって、トータルの税収は減るでしょうが。

 「世界の標準では消費税や付加価値税はどこも10~15%以上あるんですよ。日本だけが異常に低いんです」
とか言った同じ番組内で社会保障(だったかな?)に関して
「各国個別の事情があるんだから、よその国と比較してどうとか言うのはおかしいよ」

 ・・・せめて、同一番組での言行くらい一致させてください


 自分の主義主張が頑なだと、冷静な評論が出来なくなるのでしょうか?なまくらも気を付けないと。


 ところで、こんな増税賛成・TPP加盟賛成論者の声が大きい「そこまで言って委員会」ですが、昨日はみんなの党の江田憲司氏と自民党の片山さつき氏を迎えて「官僚の陰謀を暴くスペシャル」みたいなのをやっていました。

 官僚に限らず、委員会のパネリストにしても、自分に都合の良いデータしか提示しないんですね。
 その中でも
「日本は人口が減ってこれから成長しないんだから、アジアを内国化して成長を取り組まなければならない。だからTPP」
なんて、データも示さずに印象論だけで語っていた三宅氏は最悪ですが、食糧自給率一つとっても、カロリーベースで語る農水省と、価格ベースで語る江田氏との間には非常に大きな乖離があるわけで、これだけでも語る人の思惑次第でデータなんてどうにでもなるのだなぁ、と思った次第です。

 さて、今週の委員会のお題目は電力、公共事業、TPP、消費税だったのですが、全部に共通するのは
「誰の言うことを信用すればいいのか分からない」
ということではないでしょうか?

 特に電力。
 関電を中心に電力不足が叫ばれており、当地九州でも3%の電力不足が指摘されている中、江田氏が不足量のデータがコロコロ変わることを暴露していました。で、明細を求めても提示されない、と。

 これって、どうなんでしょう?
 選挙で選ばれた政治家が求めるデータを官僚が提示しない、明らかに主従が逆転しています。
 勿論、外交、安保などで国益や情報提供者の安全に関わることなら、部外秘でも仕方ないのかもしれませんが、この問題に限っては、明らかに産業界や電力会社の利益だけを考えています。
物事を考えるのに、大きな外枠だけ見て中身を細分化しないままでは、まともな議論は出来ません。
 この場合ですと、電力不足という外枠があったら、「じゃあ、どこでどんな需要が発生して、それに対する供給はどうなのか」といった中身の細分化を行わないから、好き勝手な数字が出てくるわけです。
 詳細まできっちり提示して、矛盾や嘘がないことを明らかにした上で、
「今年の夏はドコソコでこれだけの電力が不足します。」
とだけ発表すれば良いのです。

 今発売中の「SAPIO」誌上で小林よしのり氏が
専門家が科学的にきちんとしたデータを出さずに業界の意向を忖度するなら、それは単なる政治家であって専門家ではない
といった主旨のことを「ゴーマニズム宣言」で描いていました。
 氏の反原発論には懐疑的ですが、この主張は正しいと思います。

 今、経産省の官僚は専門家集団ではなく、政治家と化しているのです。(もっとも、何年かに1度、異動がある役人が専門的な知識を身に付ける余裕なんてない、という意見もありますが)

 電力に限らず、公共事業、TPP、消費税・・・すべてにおいて、政治家以外の人間が都合の良いデータだけ示して推進・反対を唱えているのが、日本の中心で行われている物事の全てなのですから、日本の民主主義なんて、発展途上国並みではないでしょうか?

 まあ、データを見せても変な屁理屈を捏ねて国会などで放言し放題だった社会党・日教組・朝日新聞などが大手を振っていたのがこれまでの日本の風景だったのですから、さもありなん?  


Posted by なまくら at 09:03Comments(0)政策一般

2012年02月19日

小選挙区制を維持するのは正しいやり方か?

 最近、新聞や書籍などを見て、「次のブログのテーマはこれだ!」と思ってもなかなか書けず、結局書かずじまい、ということが多く、何をしているのかわからない日々を送っております。

 それはさておき、本日の「そこまで言って委員会」で、選挙制度の話が出ていました。
 委員会では比例代表をなくすべき、という意見が多数派になりましたが、どうも議論の行方が腑に落ちなかったので、今日こそは書かせていただきます。

 委員会メンバーの多数意見として、衆院と参院の選挙制度が似通っていることがおかしい、とありましたが、その解決方法として、衆院を小選挙区のみにし、政権選択をやりやすくする、という意見にはなまくらは反対です。

 というのも、現行の小選挙区比例代表並立制においても最近は1位総取り的な結果を引き起こしている(郵政選挙や3年前の総選挙など)ことから、実質的に政権選択がかなりやりやすくなっていると思います。
 ところが、そうやって得た議席が、果たして有効に機能しているでしょうか?
 相変わらず少数政党が大政党を振り回すばかりか、大政党内も意見が分裂し、民主党のように1つの政党であることが不思議なくらい意見の相違がある党すら出てきています。
 結局のところ、憲法改正どころか、政策大綱すらスムーズにまとまらない状態で、「安定的な政権運営」などといった小選挙区制の利点が果たして機能しているのか、なまくらは非常に懐疑的です。

 また小選挙区制には、絶対的過半数の票を集めた政党が全て正しい、といった潜在的な前提条件があって成り立つものだと思いますが、そもそも、過半数、もしくは多数意見が本当に正しいのでしょうか?

 「民主主義は、それだけでは『多数参加の下での多数決制』ということでしかなく、もっと言えば少数派を排除する制度でしかなく、その排除が過酷ならば、少数派はレジスタンス権の名の下に体制そのものへの反逆に起ちあがる。民主主義の名の下での多数決制は、道徳・真理の基準を政治的な力関係に委ねることであり、それがもたらすのは少数派の絶望感もしくは依存心くらいのものである(要旨)」とは西部邁氏の意見ですが、なまくらも同意します。

 共産党や社民党の意見はなまくらの意見とは相いれないものであり、決して支持できるものではないのですが、彼らの意見も国民の意見の1つであり、(腹が立ちますが)尊重すべきものです。
 また、日本人の性格として、「図に乗る」という部分があるような気がします。少数意見は多数派が図に乗るのを防ぐ、抑止力としての機能があると思うのです。
 例えば、震災がれきの受け入れ問題、恐らく多数派は「受け入れ反対」でしょうが、民主主義の名の下での多数決制では、彼らの意見が道徳・真理の基準となってしまいます。そんな制度の下では、東北は見捨てられたも同然となってしまうでしょう。そういった時、石原都知事のような少数意見が非常に貴重なものとなるのだと思います。

 結局のところ、小選挙区制が民主主義の名の下での多数決制を極限まで突き詰めた選挙制度である以上、「和を持って尊し」とする日本型民主主義には相応しくない、としか結論づけることが出来ないのです。

 振り返ると、戦前も含めて日本が小選挙区制を導入した時は政治が混乱し、中選挙区制の55年体制下では、政治が最も機能していた時代だったなあ、と思うわけです。
 政治的思想や社会階級がアメリカやイギリスほど分化していない我が国において、彼らの制度を導入することが最適だとは思えないのです。

 選挙制度は(それ以外の諸制度もですが)、その国の歴史や民族性なども踏まえて議論すべきだと思うのです。  


Posted by なまくら at 21:19Comments(0)政策一般