2009年11月29日

漢字が悪いわけじゃない

 諸般の事情から、長らく更新が滞っている小ブログですが、あまり放置していると読者に忘れ去られそうなので、ひとまず更新といきます。

 今日は、産経新聞より、以下の論説を紹介します。

【新国語断想】塩原経央 子ども、障がい者 漢字が悪いわけじゃない

 政権交代して、新聞にやたら「子ども」の表記が目立つようになった。民主党が掲げる「子ども手当」による。筆者に言わせれば「子供」と「子ども」とは別の概念だ。小児または小児らを指すのが「子供」で、「子ども」は「子+複数を表す接尾語ども」を表す書き方だ。

 なるほど「子ども」と書いても、この「ども」に複数を表すという意識はもうほとんど薄れている。だからといって、この接尾語「ども」が完全に滅んだかといえばそうではない。野郎ども、アホども、子供どもといえば複数概念がちゃんと生きていることが分かろう。この「ども」には、相手を見下すニュアンスがある。だから、「子供」よりもよほど子供を侮った書き方なのである。

 「子ども」表記にこだわる人に、「供」はお供の供で、子供を供え物のように扱う人権無視の書き方だという人がいるが、事実は右のように「子ども」の方がよほど子供の人権をないがしろにした書き方なのだ。

 子供の「供」は当て字だから「子ども」と書くのだという人には、こう言おう。「あなたは仕事を『し事』、乙女を『おと女』と書きますか」と。

 国語表記の基本は漢字仮名交じりだ。青空、恋人、場合、芝生のような純粋和語をもあたかも漢語のように漢字2字で表す工夫をしたのは、それが最も読みやすく理解しやすいからだ。それは長い時間をかけて出来上がった先人の知恵の集積であって、おかげで現代人はその恩恵に浴しているのである。妙な理屈をこねて、国語表記を毀損(きそん)する交ぜ書きを広めることに強烈な異議を申し立てたい。

 同じような理屈で、民主党の障害者の書き方は「障がい者」である。「障害者」ではまるで“人に害を与える人”みたいではないかと、これも多分“人権派”の、ある人が思いついたものであろう。それを自治体の幾つかが使用しだし、それが徐々に広がりつつある。

 「障害」は昭和31年の国語審議会報告「同音の漢字による書きかえ」に例示された「障碍(しょうがい)」の書き換えで、その後急速に広まった表記だ。だから、筆者はこれを「障碍者」に戻すことに異議は差し挟まない。しかし、「障がい者」と交ぜ書きにすることには反対である。

 なぜなら「がい」は音声を表すだけで意味を持たない書き方だからだ。「障害者」の「害」は“そこなう”という意味を持つ。「障碍者」の「碍」は“さまたげる”という意味を持つ。漢字ならそれがありありと見える。そういう人は心身が正常に機能するのにさわりや、そこない、さまたげを持つ人と理解するのが常識というものだ。“人に害を与える人”などというのは為(ため)にする議論である。

 「障がい者」は、障害者のハンディに目隠しをする書き方であり、非障害者が障害者を見て見ぬふりをするのに都合のいい書き方とさえいえる。

 文字はもとより、人の世を映して、それを表す手立てにすぎない。人の世には善があれば悪もある。美があれば醜もある。光があれば闇もある。「供」であれ「害」であれ、決して漢字が悪いわけでない。「子ども」「障がい者」と漢字隠しをしても、問題は一つも解決しない。けしからんのは漢字ではなく人間の方なのだから。新政権はそこをよくよく考え、国語表記の襟を正すべきだ。

(以上、MSN産経ニュースより転載)



 ブログを始める少し前から、文字表記、文章表現に関心を持ちだしたなまくらにとって、胸がすくような一文でした。
 この「新国語断想」は「石井式漢字教育」など面白い記事を多数紹介しており、毎回興味を持って読ませていただいております。

 残念ながら、この宮崎県でも、「障がい者」という書き方を公文章で使用しております。
 ”人権派”にとっては、「害」の字がどうしても不都合だったのでしょう。
 だったら、「障」の字はどうなんでしょうか?
 ともに、マイナスイメージのある字だと思いますが、いずれこれも屁理屈を捏ねて平仮名にし、将来的には「しょうがい者」と書かせるつもりなのでしょうか?
 さらに、「しょうがい者」でもマイナスイメージが付き始めたら、全く違う新語でも創るつもりでしょうか?
 いっそのこと、「大秀才」とか「英雄」と書いて「しょうがいしゃ」と読ませますか?それとも、”人権派”の宗主国で使用しているハングルで書き表しますか?

 言葉や文字は、それが生まれた歴史や文化を背負っているものです。今この瞬間の薄っぺらいイデオロギーや感情に基づいて、安易に弄って良いものではないと思います。
 でなければ、一時期流行った「言葉狩り」、「言葉遊び」に堕してしまい、本質的な解決が等閑(なおざり)にされてしまう恐れがある、と言いたいのです。

 なまくらは、今後も小ブログにおいては、「障碍者」、「子供」(ただし「子ども手当」は固有名詞と捉え、「子ども」と表記)と書き表すつもりです。
 旧字体の方が表意に適している、と判断すればそちらを使用するし、混ぜ書きは極力排除するつもりです。
 ただし、敬語表現等も含め、間違っている事も多々あると思いますので、その際には御指摘いただけると大変ありがたいです。
 読者の皆様には御不便をおかけすることもあろうかと存じますが、今後ともよろしくお願いします。
   


Posted by なまくら at 08:02Comments(0)教育問題

2009年09月22日

自分に誇りを持つ、ということ

 さあ、今日は「敬老の日」、国民の祝日です。
 というわけで、我が家は国旗を飾りました



 実は、国旗を祝日に飾るのは、今日が初めて。というのも、1年ほど前からホームセンター等で探していたのですが、どれもチャチい上に中国製だったりして購入を躊躇っていたのです。中山さんの街頭演説会を見学した帰りに、前々から気になっていた旗屋さんに入り、やっと満足いくモノを購入し、今回が初使用となったわけです。
 最近は祝日に国旗を飾る家を見かける機会がめっきり減ってしまい、下手すると右翼扱いされてしまいますが、こういうことを肩肘張らず、普通にできるようになる日が来るといいですね

 さて、我が家に最近、1冊の本がやってきました。
 タイトルは「完璧な親なんていない!
 子育てに関し、完璧を目指すあまり、ストレスを抱えたり、酷い場合には虐待に走る親の心情を理解し、解決に導いてくれる内容となっています。
 ニュース・政治ブログである小欄が何故いきなり育児本を紹介するか、というと、次の1節に感じるものがあったからです。勝手ながら、一部抜粋してみたいと思います。

 からだが成長するには、次のものが必要です。
 ・栄養バランスのいい食べ物
 ・休息
 ・運動
 ・安全な住まい

 こころが成長するには、次のことが必要です。
 ・安全で、守られ、愛されていると感じること
 ・他の人といっしょに過ごすこと
 ・新しいものを見たり、経験すること

 こころが成長するにつれ、子どもは次のことができるようになります。
 ・考えたり、理解することができるようになります
 ・ほかの人と仲よくし、その人たちを好きになり、信頼するようになります
 ・感情も発達します。自分にたいして自信をもち、ほかの人を愛したり、気にかけたりするようになります


 (以上、“子どもの感情 ~成長するからだ、成長するこころ”より引用)

 この欄を読んだ時、なまくらは、親と子の関係、って、国家(政府)と国民の関係に似てないか?と思いました。
 上記引用文を、ちょっと置き換えてみましょう。

 経済(あるいは国力)が成長するには、次のものが必要です。
 ・バランスのいい産業構造
 ・余暇
 ・勤勉
 ・安全な生活圏

 民度が成長するには、次のことが必要です。
 ・安全・安心の社会、世界から愛されていると感じること
 ・他国の情報
 ・新しい情報、積極的なチャレンジ

 民度が成長するにつれ、国民は次のことができるようになります。
 ・自分たちや地域、国のことを考えたり、理解することができるようになります
 ・他国の人と仲よくし、その人たちを好きになり、信頼するようになります
 ・感情も発達します。自分にたいして自信をもち、他国の人を愛したり、気にかけたりするようになります


 どうですか?似てませんか?

 日教組や左翼政党などは、子供達に自虐史観を植えつけようと必死になりつつ、一方でアジアの国々(と言っても中・韓・朝の特定3カ国)と仲良くしなければならない、と説いています。
 しかし、自分に対して自信を持てない子が他人を愛することができないように、自分の国を好きになれない、誇りも自信も持てない国民が、どうして外国と仲良くできるでしょうか

 英国でも、かつては左翼団体がはびこり、子供たちに自虐史観を教え込んでいたそうです。
例えば、大英帝国は人種差別に満ちた侵略国家だ、白人文化は残虐非道の文化だ・・・
とまあ、こんな調子で延々自虐史観を吹き込まれた子供たちは、誇りを失い、学級崩壊が起こり、学力も極端に落ち込んでいました。彼らは大人になっても働く意欲を失って、いわゆる「英国病」を病んでいました。
 このままではいけない、と登場したのがサッチャー首相でした。
サッチャー内閣は教育改革において、まず自虐史観を教えることを禁止したそうです。
 改革の柱は、自虐教育の是正と教育水準の向上でした。歴史教育は「自国への誇りやアイデンティティの形成」が目標とされました。
まず国定のカリキュラムを作り、全国共通学力テストを実施しました。そしてカリキュラム通り教育が行われているかどうかをチェックする機関を作り、基準に満たない学校は容赦なく廃校にしました。
その結果、歴史教科書は功罪両面から多角的に描かれるようになりました。子供たちは自信と誇りを取り戻し、学力は欧州トップレベルにまで上り詰めたのです。2001年3月ブレア労働党政権はついに、「英国病克服宣言」を打ち出しました。
(参考URL:http://plaza.rakuten.co.jp/okinawapapa/6000

 つまり、自分たち自身に対する誇りや自信というものは、これぼど大切なものなのです。逆に言うと、それを知っているからこそ、左翼はそれを逆手にとって自国の弱体化に勤しむのでしょうね。

 “何となく”でも、戦前の日本は悪い国だった、と思っている国民は大勢います。それが、バブル以降の自信の喪失に繋がり、日本が未だに長期低迷に喘いでいる原因になっているのでしょう。
 なまくらは、別に戦前の日本が無謬で絶対正義だった、と言いたいわけではありません。先の育児本のタイトルのように、「完璧な国なんてない」のです。しかし、反省の名においてする過度の自己批判、謝罪は自国のみならず、相手国のためにもならない、と言いたいのです。

 先に紹介したページの末尾には、こう書かれていました。

 これらの条件が満たされれば、子どもはこころもからだものびのびと成長することができます。

 これらの条件が満たされれば、国は民度も経済(または国力)ものびのびと成長することができます。

 一人でも多くの人が気付くのを願ってやみません。
  


Posted by なまくら at 00:17Comments(3)教育問題

2009年08月08日

”児童の口にチョーク”は誰が悪いの!?

 はい、やっと先週の水曜日の分です。(遅!)
 お題は、これ、なまくらは知らなかったんですけど、高知県の小学校で起きた、下記の事件の事でした。


 高知県教委は28日、公立小学校の50歳代の男性教頭が6月、担任する男子児童の口の中にチョークを入れ、心的ストレスを与えたとして、減給3か月(10分の1)の懲戒処分にしたと発表した。
 児童は中学年で、チョークを入れられた翌日から、ほとんど学校を休んでいるという。
 県教委によると、教頭は6月24日、児童数人が授業中、あくびをし、全員に「次にあくびをしたら口にチョークを入れる」と注意。うち1人が「入れや」と口を開けたため、チョーク(長さ2~3センチ)を口の中に入れたが、すぐに取り出した。この児童は翌日から夏休みに入るまでの間、4日しか登校しなかったと いう。
 教頭は児童と家族に謝罪し、県教委に対し、「申し訳ないことをした。初心に戻ってやり直したい」と話しているという。

(読売新聞7月28日配信)


武坊
 感情的に色んな事を言うとややこしくなってしまいますので、この男の子は言ってみれば挑発したわけですよね?「(チョークを)入れてみぃや!」、て口をアーって開けた。
 普通、私たちの年代の感覚だったら、まあ、クラスに1人くらいいたよね、粋がってる奴。先生が注意したら「何や、コラ」そういう奴ってやっぱり突っ張ってたから、そこで先生に叩かれても「そんなもん痛くないわ」そんな感じの強さというか、そういうものがあったけれども、「入れてみぃや!」て入れられたら、「ああ!どうしてそんなことされたのかしら、わたし!」て、急に悲劇のヒロインになっちゃうわけ。そこが今の先生のやり辛いところなんでしょうね。
 その局面だけ見れば、チョークを入れた、てことで先生は責められちゃうわけだけれども、その前の流れからいくと、じゃあ、入れてみいや、て言う生徒がいた場合、先生は、叩いたりしないで、どうすれば良いんでしょうかね?その方法論がイマイチよく分かんないでしょ?

 何か、どっかで「舐めるなよ」という抑えを効かせておかないと、クラス全員がバラバラになって統率がとれないから、先生としては、どこかでガツンッとやりたい、ていう気持ちは当然ありますよね。
 でも、こうやって突っ張って、自分に歯向かって来るくらいだから、少々ガツンッとやったところで大丈夫だと思うのに、こういう風になっちゃうと思うと、先生たちもどういう風にすれば良いのか分かんない、て部分もあるんじゃないでしょうか?

横山由美
 最近の子供、てやっぱり怒られることがとっても少ないのかも知れないですよね。
 昔は、近所のオバちゃんとか親もそうですけど、色んな人が怒ったりしてましたけど、最近親も近所の方も怒らなかったりするので、怒られ慣れてないので、ガツンッとやられると、とっても怖いのかも知れませんよね。

武坊
 そうよね。何をもって普通、ていうのかも難しいんだけれども、どうやら傾向として、最初はすごく乱暴者で、傷つけやすいタイプに見えてたと思うんです。でも、実は傷つけやすい子、て傷つきやすい部分があって、自己防衛するために過剰防衛して傷つけやすくなってたりすると思うんですね。

 逆のパターンもありますよね。弱そうに見えて、実は物凄く怖い人。
 ネットのブログなんかで見るんだけれども、「私は会社の中では本当に上司から苛められていて、世の中に絶望して、引きこもり状態です」なんて綿々と綴っている、ある女性のブログがあったんですよ。それに対して、レスで「私もそう、会社、てオカシイよね」「私たち、て何なんだろう」て同情と共感を書いてくれる人には、凄く寄り添おうとするんだけれども、その中に、「でもさ、社会、てそれに打ち勝たないといけないんじゃないの?」てちょっと批判めいたことを書いてきた人に対しては、今まで絶望して打ちひしがれた、て言ってたのに、猛然と向かっていくのよね。
 「あなたは全然分かっていない!」「人の痛みが分からない!」「あなたみたいな人間がいるから、社会がおかしくなるだー!!」て、あんた絶望もしてないし、打ちひしがれてもいないし、パワフルじゃん!て思うわけよ。

 だから結局、両面あるんですね。傷つけやすい面と傷つきやすい面。
これは誰しもそうなんだけれども、あまりにも極端に両極に振れる、ていうのは、私は教育の範疇を超えている、と思うんですよ。

横山由美
 先生方もとっても大変でしょうね、そういう子供をたくさん抱えていたら。先生の方が逆にPTSD(心的外傷後ストレス障害)とか出やすくなっちゃって、心の病を抱える教師も増えているみたいですからね。

武坊
 医者じゃないから、「この人は病気です」なんて言うと差別になっちゃうけれども、今、学校にはスクールカウンセラーが入ってきたり、色んな意味で精神医学的なところからモノを見ましょう、て言ってるわけでしょ?
でも、大抵、事件が起っちゃってから、「確かにあの子は普段から人格が極端だった」て話が出てくるんですけど、なら、なんでその前にちゃんと精神医学的なもので見ないんだろう、てところで、こういう本をご紹介したいと思います。

 岡田尊司(おかだたかし)さん、ていう精神医学の先生がいらっしゃって、今、京都の医療少年院でお勤めなさってるんですけれども、その人の“パーソナリティ障害”(PHP新書)を読んでみたんですけれども、確かに現代に色々当てはまるな、ていうのがたくさんありました。
 “パーソナリティ障害”てのはどういうものか、ていうと、人格(パーソナリティ)の度が過ぎてしまって、社会に適応して生きていくのを邪魔している、ということ。兎に角、これを変えましょう、と。
 この先生が言うには、幼児の頃の虐待や育児放棄は、極めて深刻な結果を生む、と。やっぱり無条件に与えられるこの時期に、無条件に与えられる母親の愛情が、確固たる自我の基盤を作るから、それが損なわれると、自分の人格自体が極めて脆いものになってしまう、というようなことを書いている。
 そんな事を言うと、女性の社会進出を阻害してしまうことになってしまうけど、それはそれとして、そういう部分もある、と。

 何か、そういうところから捉えていくと、そういった“パーソナリティ障害”を抱えた子供たちを、精神医学のズブの素人である学校の教師に全てお任せする、てのは、はっきり言って無茶な話じゃないかと思うんです。別畑でしょ?
 そんな風なものを押し付けられている先生方が、それこそおかしくなってるわけじゃない。精神的に病んでいる。
 教育の場に、病気じゃないか、とか精神医学という言葉が入ること自体、アレルギー反応があるかも知れないけれども、意外とそれを入れた方が、すんなり片付くことも多いんじゃないかなぁ。
(引用終わり)

 家庭や地域が子供を育てる意欲、力を失っていると言われて久しいですけれども、精神医学的にも、母親の存在、て大きいんですね。

 少子化もそうですけれども、女性の社会進出が進むにつれ、子供の問題が深刻化している、と考えるのは早合点でしょうか?
 昔読んだ何かの本にも、女性の社会進出とか男女共同参画とかは、理念としては素晴らしいけれども、その実態としては、終身雇用の崩壊などで父親の収入が不安定になった、そのあおりを受けた結果であり、長期的には社会の活力を削ぐ、なんてことが書いてあった気がします。
 その功罪はいずれ判明するものとしても、子供の頃の躾、て大切だなあ、と思います。

 知人の子供なんかでも、他の子のオモチャを取り上げたり、叩いたりしてもほとんど叱らない人は結構います。
 また、たまに電車に乗ると、ろう学級の児童が身障者等の優先席に座って、隣の座席に鞄を置いて、1人で2人分の座席を占領しているのも見かけます。母親は、ホームから窓越しに手話で子供と会話していますが、それを咎める様子は全くありません。
 まあ、ろう者も身障者の内という見方もあるでしょうが、優先席は足腰の弱い高齢者や、立っているのが辛い妊婦などが優先的に座れる席であり、身障者全般の特等席ではない、と考えるべきだと思います。

 いずれの例も、我が子可愛さのあまり、また、我が子は特別だから、という意識のあまり、叱ったり注意したりしない例だと思います。
 しかし、その子たちはいずれ、上の学校、社会に出て一人の人間として責任を負う立場になるのです。その時、恥をかいたり、社会のつまはじき者になるのは、その子ら自身なのです。
 そうないようにすることこそ、今子供を叱って泣かせないことより、よっほどその子のためになるのではないでしょうか?

 とある神主さんは、こういう事をおっしゃられました。
“親”という字は木の上に立って見る、と書きます。決して、子供と同じ目線に立ってはいけないのです」と。
 大人ならではの、広く、長期的な視点から子供を育てなさい、という大変有難いお言葉で、なまくらは今でもそのお言葉を思い出します。

 日教組のように、子供の権利とかぬかしてたら、目先の楽しか考えない子供しか育ちませんし、実際に都会の学校では、児童がそれを見越して、教師が体罰を加えないという“安心感”の下、学級崩壊を起こしていますね。
 それが高知という地方の学校にも波及していることが証明されたわけですが、時には張り倒してでも言う事を聞かせる親と先生、それに地域がないと、本当にこの国は駄目になってしまうのではないでしょうか。
  


Posted by なまくら at 06:52Comments(0)教育問題